『いじめ』と『捨て猫』

ペチャ

2007年01月11日 22:00



1985年 海部俊樹文相のげき「『いじめ根絶』に向けて一丸となって取り組んで欲しい」の号令で『いじめをなくせ』がスローガン化し、いじめは「あってはならない」の空気となって、今なお教育現場を覆っているように見える。(中日新聞 いじめと生きる)

これって

「いじめをなくせ」 → 「いじめがあってはならない」 → 「いじめがあっては困る」 → 「これはいじめとは考えない」 → 「いじめではない」 → 「いじめはない」

ってことになるの?

この考え方を 『捨て猫』に当てはめると

「捨て猫をなくせ」 → 「捨て猫を取り締まれ」 → 「捨て猫があっては困る」 → 「この猫は捨て猫ではない」 → 「野良猫が産んだ子猫かもしれない」 → 「捨て猫ではない」

警察、行政、獣医師会に捨て猫を 捨て猫として扱って欲しい。

捨て猫を認めて 動物愛護管理法違反として、啓発して欲しい。

と訴えたとき、「警察に届けられた仔猫は、飼い猫が迷子になったのか、野良猫が産んだのか、捨てられたのかが解らない。だから捨て猫として扱えない。」 このように返事されます。
段ボール箱に入れられて放置されても この答えです。

『いじめ』も『捨て猫』もに対応する考えと同じように認めないことで解決しようとしても

何も解決できないと思います。

認めることから スタート では・・・

いじめでは 「ゼロの圧力」が、むしろ、いじめを見えなくさせていく、「学校にいじめがあることは問題じゃない。見て見ぬふりをし、何も手を打たないことの方が本当の問題」と和歌山大学教育学部の松浦教授は言っています。

捨て猫も、捨て猫の事実を認めないから、認めようとしないから、啓発ができない。

捨てることが犯罪行為と言えない。

捨てられた仔猫を見つけて心を痛めている子供を思いやれない。

そう 思いませんか?